夏の怪談系映画だからまだ高校生くらいの若い女の子なんかも居たりして、梅田ロフトの地下のひんやりとした空間からは、上映が始まる前からすでに恐怖モードに入っている声が聞こえて来たりして、そうした雰囲気の中で映画を観れるのはやはりいい。
まったく個人的な話になってしまうが、僕が初めて高橋さんの作品に触れたのは『リング2』で、そのとき僕は中学生、映画もごくたまに、月に一本映画館に観に行っていたくらいで、特別映画が好きだったというわけでもなく、観ている映画もほとんどがメジャーな作品で、そんなわけだから高橋さんの存在を知るはずもなく、そのときはただただ映画が怖かったのは覚えているけど、友だちと集まって観に行ってたから強がって斜にかまえたりしていたかもしれない。
でもその時の場内の雰囲気は鮮明に覚えていて、怖いシーンが盛り上がってくると場内から「きゃーっ!!」と悲鳴があがったり、終映後も方々から自分が今観たものをなんだったんだと囁き合う声が聞こえて来て、中には泣いている人まで出てきた。しかし、当時はこれを特別な現象だなどと思うこともなく、『リング2』のことも特別強く覚えていたわけではない。
映画のことを勉強出来る専門学校に入って、劇場分子の金子先生などの映画に狂ってる様子に感化されて、こういう狂った人たちの面白い話をもっといろいろ聞きたいと思って、その言葉を聞ける様になるには映画を観るしかないと気づき少しずつ映画を観るようになって(といっても週に1本か2本くらい・・・)世の中に沢山存在する映画のほとんどわけわからんぞと、そんなことに気づき始めたころに、今はネミ屋をやっている若月さんがその時は僕の先生で、「さっき本屋に行ったらこんな本が出ていました。」と取り上げたのが高橋さんの『映画の魔』で、そのとき若月さんがどんな紹介の仕方をしたのかはまったく思い出せないけど、こんな狂った人が薦める本なんだからと買ってみたことによって、高橋さんの世界と遭遇することになりました。
とはいえ帯に「それを見てはならない」と書かれたこの本、書いてあることのほとんどわけがわからない。作家名、作品名はもちろんのこと、さらには高橋さんが確信的に語るラングやマブゼの「犯罪による支配」なんてわからないどころの問題ではなくて、それでも文章がとても面白く、書かれていることはわからないけれども全てが何かの確信に満ちていて、「あぁ、俺もなんかわかってきたかも!」みたいなほとんど洗脳に近い感覚を味わいながら読み進めて、でもまぁ結局この本は学生時代に何度も読み返してみましたがまったくわかることなんてなく、今でもほとんど何が書いてあるのかわかりませんが(だからこその名著です)、その中で強烈に自分の中に刻み込まれた高橋さんの言葉が「表現すべき自己など無い」というもので、僕が通っていた学校はカンヌナオミを輩出したところだったので、むしろ高橋さんの言葉とは真逆のこと、自分探しみたいなものを教えていたところでもあったのだけど、高橋さんの「表現すべき自己など無い」ということを書いている文章の方が、すぐ近くで自分探しを教えてくれる(この言葉おかしいぞ!)教師の言葉よりも遥かに具体性があって説得力もあったので、そういう方向に映画を勉強するようになったということがありました。
それからもう一つ、「表現すべき自己など無い」ということにも繋がってくると思うけど、これは高橋さん一人が言っていたわけではなかったかもしれないけれど、映画やカメラの原理についての言葉が面白くて、よく言われるような話であれば「どんな映像も、スクリーンに映したときには過去である」ということなんて言われるまで考えもしなかったし、それはどうにも逃れ用のない事実で(でも『彼方からの手紙』でテレビに映された映像はちょっとだけ未来を映していた!)、「映像の中の人は、実在する人間なのか幽霊なのかわからない」みたいなことを書いていて、確かに僕は人間も幽霊も見分けがつかないととても困ったことを覚えています。
今日から上映の始まった『恐怖』はそうした様々な思考が詰め込まれたものです。
その思考はJホラーに留まらず、日本の映画を大きく前進させたものでもある。
それはもちろん自己表現などであるはずもなく、映画とはなんだろうかという問い、カメラが何かを映すとはどういうことで、それを映写機が投影するとは何なのかという問いの果てに産まれたフィクションが、冒頭のタイトルまでの一連の美しいシークエンスに描かれる。
「それを見てはならない」と帯に書いたのは高橋さんではないかもしれないが、観客は「それ」を見たいがために座席に着き、多くの場合それを見ることは叶わず、しかしそれでもいつかそれが見れるはずだと思い続けて、いつしかそれを見たと思う人もいるかもしれないし、いつの間にかそれを見ていたということに後になって気づく人もいるかもしれない。
映画の中で片平なぎさ演じる医者は科学的にそれを見ようとする。
脳は科学的に未知の領域が多く、そのため最近は神秘性を伴ってメディアなどで扱われる存在でもあるが、そんな神秘性(自然と言ってもいい)を備えかねない存在を抽象性を排した科学の側面から「それ」に近づこうとする片平なぎさと、映画というそれこそ芸術の神秘性(それは自然さ、つまり作家の内側から産まれる純粋な創作とも言える)などありもしない、科学的とさえ言えるような実験性を持った、抽象など許さない確信でもって描かれる芸術(そもそも芸術とは歴史を積み重ねた上での現在の更新だ)の力でもって「それ」に近づこうとする高橋洋の格闘であり、そしてまた観客にとっても同じく「それ」を観るためのこれまでの積み重ねと目の前で更新され続ける映画との真剣勝負だ。
この映画は少なからぬ難解さを備えてはいるわけだが、それは一本の映画のなかに様々な歴史と文脈が組み込まれ、交錯しているから。
来週の7/17(土)に僕たちが企画している映画談義でどのような話をするかについては高橋さんと一緒に考えていて、おそらくこうした歴史についての話も出てくるだろうと思う。
映画、そして恐怖表現というものは様々な歴史を通過して来て、それがあったからJホラーが産まれた。そしてその中で様々な試行錯誤が産まれては消え、現在ではJホラーと呼ばれるものは消滅しかけている。この『恐怖』ではそのJホラーに一旦の区切りをつけるのだという思いもあるのだと語られている。
では、これから日本の恐怖表現はどうなるのだろう。その第一歩目を目の当りに出来るのが今回の企画なのだ、というのは言い過ぎだろうか。
しかしまずは上映の始まった『恐怖』を見ていただきたい。
優れた映画は常に様々な歴史を限りなく交錯させた上での可能な限りの先端に位置するが、『恐怖』もまたそうした映画である。
確かにこれまでのJホラーへの一つの決着かもしれないが、それは同時にこれからの恐怖表現に向けての始まりでもある。
長崎
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